アイルトン・セナが生きていた頃よくF1を見ていました。
あの頃は個性的なドライバーが集まっていて面白かったです。でもセナが亡くなってからは見なくなりました。
ネルソンピケ、ナイジェルマンセル、アランプロスト、アイルトンセナ。
どの人物もオリジナルでした。コピーではありません。
ナイジェルマンセル: みんなそうだけど俺が一番という塊。F1の最後に乗ったセナ曰く「宇宙から来た車」アクテイブサスペンション搭載のウイリアムズルノーFW14?とセナのマクラーレンホンダMP4-7とのバトルは最高でした。
アランプロスト:セナを形容するとき「天才」という言葉をつかいますが、不世出の天才はプロストです。彼はセナのように限界の走りはしません。常に余裕を持って走っています。でも常に1位か2位を走っています。
アイルトンセナ:「誰よりも速く走りたい」その価値観が全てでそれ以外を一切望まない。24時間それしか考えていない人。そのためには何でもし、その欲求を満たすためなら命までかけてしまう人。彼はそういう意味での天才でした。
おそらくただ単純に車を速く走らせるという能力でいけばプロスト以上のドライバーは出てこないと思います。でもプロストはセナには勝てませんでした。
セナには命をかけているという、のびしろがあったからです。
なんでこんなスピードでこのコーナーを曲がれるんだ、というスピードで曲がりきってしまう意志とイメージの力。
ミハエルシューマッハ:不幸にもライバルがいない人。ただF1を一番速く走らせることが出来るだけの人に見えてしょうがありません。見ていてあまり興味がわいてきません。
でもどの人もオリジナルです。コピーではありません。
私はこう思います。世の中の大部分の人は誰かのコピーです。
オリジナルの人は当たり前ですけど、かなり少ないです。
今ここで自分がどちらかなのか判定してみて下さい。
テレビを見ていても感じます。ポジションは一つしかありません。
天然ぼけキャラ女性タレントのポジション、女の子ボーカルのバンド。
新しい人が出てくれば取って代わられます。ポジションは一つだけですから。
生活していたり、GYMをやっていて思うのは
「コピーの中でのクオリテイーの高さを競ってもしょうがないし、オリジナルにならなきゃダメだろう」ということです。
コピーが悪いとは思わないし否定もしないけど、そんな簡単に取って代わられたり、自分の他にいくらでも代わりがいて自分が出来なくなってもいくらでも代わりがいると考えただけで、なにか寂しい気持ちになります。
しかも面白くなさそう。
いまだに修斗というと佐藤ルミナの顔が浮かんできますが、それも彼がオリジナルだからだという理由だと思います。年もとったし、負けもするけど、でもオリジナルである彼の代わりはいません。
オリジナルの人は殆どいません。
やっぱりよく分かりませんが
「コピーの中でクオリテイーの高さを競ってもしょうがないし、面白くないし、なんか悲しい」
そんなことを最近ふと思いました。
*最初マニアックな話で最後まで読んでくれた方ありがとうございます。
