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2008年06月05日

坂の上の雲

YOSHIさんにメールを書いていたらいい文章が書けたので、ブログにのせてみました。

今まで目標や計画が大事だと思っていろいろやってきましたが、最近は一周してそういう物は持たないようになりました。

あまり決めないでフレキシブルに動けたらそれでいいかなと思っています。

というかある程度必要な目標は達成してしまったので、いろいろ楽しんでやっていけたらいいと思います。

最近の日本を見ていると「坂の上の雲」にたどり着いてしまったような気がします。

「坂の上の雲」とは司馬遼太郎の小説の題名です。

日露戦争の頃アンケートではほとんどの日本人が「幸せか?」と聞かれたら、YESと答えていたそうです。

今はみなさんがよく知るようそうでもないです。

何故かなと考えたら雲の上にたどり着いてしまって、横や前や後ろにも雲があってそっちだったんじゃないかと、右往左往しているような気がします。

テレビのニュースを見ていても、今の世の中が素晴らしくて、肯定するような意見や出来事を聞きません。

そういう意味で目標主義は、私の中で無くなりました。

「坂の上の雲」は高校の時国語の先生に勧められて読もうとしましたが、難しくて少し読んで返してしまいました。

20年経ったいまもう一度読んでみたいなと思います。

2008年03月15日

方便

以前コメントに「会社で個人目標を書かされていて、今年はそういう目標や計画はないんですか?」というのがありましたので、しばらくたちましたがここで答えます。

私は「目標と計画」は持たないようになりました。
いろいろ考えてやってきて一周して、そういう必要がなくなったといってもいいでしょうか。

目標と言うのはすごくいいものです。
それがなければなかなか頑張れないと思います。
むかし日本には「一里塚」というものがあって4Kmごとに進んだのがわかるように置かれていたそうです。
目標とはそんなものだと思います。
志を高く持てばゴールはありません。
目標とゴールは違います。

目標とは「いま現在このままでいいんだ」というものを否定するものかもしれません。
目標が達成できなければ不幸かもしれません。
大学受験で志望校に受かるという目標を達成できなければ不幸かもしれないし、試合に負ければ不幸かもしれません。

お釈迦様の教えに「方便」というのがあるそうです。
修行を積んで悟りを得たときに仏になれるという考え方が日本では一般的ですが、悟りを求めようと思った時点で皆すでに仏なんだという考え方です。
「途中」 「過程」こそが大事なような気がします。
その途中、過程にこそ悟りがあります。

がんばりすぎている人を見ていると「目標と計画病はやめて、そのままでいいんだよ」と言いたくなります。
だからといって最初から「目標と計画」が必要ないわけではありません。
それを追って追ってゴールが見つからなくなったらまた考えてみてください。

私は「目標と計画」は今のところ持たないで「理念」だけはもって「行動」にあたっていこうと思っています。

そんなことを考えながらいつも自転車に乗っています。

2008年01月10日

北京に行って 2

北京に行って本当によかったです。
行かなかったらどうなっていたんだろうと思うくらい行ってよかったです。

何日か前のブログにも書きましたが、今回の旅行で知ったのは一言で言うと「とらわれない」ということです。

価値観が違うというのもありますが、目の前の価値が変動していく様を見て痛切に感じました。

自由とは「自らに由る」と書きますが、凡夫の私たちは自からではなく「世間由」によっていると思います。

会社にしても企業の目的は「コンサーンオブゴーン」(言い方が違っているかもしれませんが指摘しないで下さい)と言って続けていくことです。
毎年103%Upを目標としています。

だいたいずっと続けることも、毎年103%Upすることも不可能です。

学校ではいかに企業に役に立つかどうかで人間の優劣が決められていきます。
失敗は悪。
でも失敗すればするほど成功に近づきます。
ノウハウも蓄積できます。
かわいそうののは失敗したことがないことです。

ガン患者はかわいそう、健康なのは幸せ。
かわいそうなのは気づかずぼーっと生きている凡夫のほうかもしれません。

これからの社会ものすごい勢いで科学技術が進歩していきます。
これについていく必要があるかもしれませんが、置いていかれないようにするにはどうしたらよいのか?

それは何も持たず、教育を受けないことだと言えるかもしれません。

ものを持てばそれに縛られます。私のようにハコを持って設備を置いてしまうとそれにとらわれます。
そこから離れられません。
教育が一番大切だとさんざん書きましたが、今度は過去に受けた教育にとらわれます。

松下幸之助は成功するためには「素直な心」それさえあれば後は何もいらないと言いました。
今思うと、とらわれるなということを言いたかったのかもしれません。

私は北京に行って帰ってきただけでいろんな問題が勝手にクリアーされていました。
それくらい行ってよかったです。

北京はマスコミが過剰にネガテイブキャンペーンをしているだけで普通のところです。
安心して下さい。

北京に行って 1

今回の旅行で感じたのは「全てのもの(価値や考え方)を疑え」です。

昨年アメリカに行って自分が「格闘技が好きだ」というのを感じました。

前回のグランドキャニオンに大変感動したので、世界遺産を見るということで五つ見てきましたが、それよりもサイドのものに感動しました。というよりもショックを受けました。
万里の長城よりもはるかにショックを受けたのはついた日の夜に見たホテルのそばの下町でした。

泊まったホテルは5月に出来たばかりの四つ星ホテルでしたが、そのすぐそばの下町に一番今回驚きました。

まずぼろぼろです。店がずっとならんでいますが店先の幅が3メートルくらいしかなく、基本何故か?美容院、食べ物屋、雑貨屋、八百屋これが繰り返し並んでいます。
こんなぼろぼろで八百屋なんてしなびた野菜しかおいていないのに何故か夜中まで営業しています。
ぼろぼろの下町なのに何故みんなこんなに美容院に行きたがるのかよく分かりません。
コンビニは一度も見ませんでした。
雑貨屋は中は何故かすごくきれいに整頓されています。
食べ物屋は汚くて入るのにかなり勇気がいりますが、初日に入ってみました。

ゴミは外にバンバン捨てるし、公衆トイレには行ったらさえぎるものが何もありませんでした。

公園でおもちゃを100円で売っていて安いなと思ったら、他の人が50円で買っていたり。

ガイドの通訳の方と2時間ほど二人で話を出来たのもすごくよかったです。

今まで自分が信じていたものが、そうでもなかったことばかりでした。

さっきまでそうだったものが、数分後にそうでなかったものが多々ありました。

こう考えると「諸行無常」というものがよく分かりました。

実際は日本でも変わらないものなんて無いはずです。

先日信長の棺をTVで見ていたら家康が「形は変わるから、形はどうでもよい」という下りがありました。

またヤフーや楽天でも経常利益は何年も何十億以上赤字だったりします。
ただ株価が上がっているので、貸借対照表に有価証券として自分で持っている株が大きくのっているだけです。
でも実際は赤字です。
こう考えると店舗がある訳じゃないし、資産も株価。
実体なんか無いじゃないかという見方も出来ます。

西武やダイエーの時代には土地を持っていることが偉いというのがありました。
なぜなら日本は戦後地価が上がり続けたからです。
でもバブルがはじけてそれも幻となり今は消滅しました。

こう考えると全てのものはそのときだけの価値であり、それでいいんじゃないかと思います。

通訳の方も年に一度は海外に行くようにしているといっていました。
なぜなら同じことばかりしているとバカになるからだといっていました。

本当によく分かります。

肉体労働と頭脳労働の二つがあります。どちらがしんどいかといったら確実に後者です。
後者の方が少ない理由はここにあるとおもいます。

自分を肯定することは簡単だし、楽です。
疑うことはしんどいです。

私は毎日かなり頭を使っています。
だから昨日よりも10年前よりも今日が一番頭がいいと思ってきましたが、格闘技と接骨を行き来しているだけでバカになっていることにも気が付きました。

疑う。

自分の立っている場所、立っている方向、立ち方、進み方、先に何があるのか、よけるのか飛ぶのか、やるのかやらないのか、これを全て疑うのはしんどいですが、その先に自分が望んでいるものがあると思います。

だからしんどいですけど「全てのもの(価値や考え方)を疑え」

これを忘れないでやっていこうと思いました。

2007年12月24日

二極化

最近二極化とか格差社会という言葉をよく耳にします。

今日もTVでニュースを見ていたら天皇陛下が「国民の食と住が脅かされている」おっしゃっていました。

そこしか見ていないので地震のことをいっているのか、格差社会のことをいっているのかよく分かりませんが、それに少し驚きました。

私が株をやっていたらそれだけで売り注文をしたくなるくらい驚きました。(株はやったことがありません)

これって何だろうと考えたときに、一般的に「賃金」のことを言っているのだと思いますが、私の解釈は違います。

「教育」の格差だと断言します。

格差が生まれると、一億総中流から極端な話九九や漢字もよく分からない子供が出てきます。
町もスラム街のようなところが生まれてきます。
当然治安も悪くなります。

浜松でもそういう場所は現実に出てきています。

お金がないと高い「教育」を受けられなくなります。

悪いですが昼間から働かないで遊んでいるような親に育てられた子供は、もう無理です。
完全に終わっています。
そして国力も落ちていきますます格差は広がるばかりです。

それなので「教育」は世の中で一番大事なことだと私は考えています。

子供にいろいろと残す人がいますが、この「教育」こそ親から子供への最高の贈り物です。
一度身に付けたものは邪魔にはなりません。

例え一時お金を失ったとしても、高い「脳力」を身に付けていさえすれば、元には戻れます。

それなのでK.O.SHOOTO GYMに通う子供には高い能力を身に付けていってほしいと思って指導をしています。

スキャモン曲線というのがあって、要は子供の神経の発達具合は10歳くらいまでだよということです。
それまでに以下に複雑な運動をさせて、脳と神経を鍛えるかということです。
そこからいくと批判するわけではないですが、水の中でひたすら同じ運動を繰り返させることに何の意味があるのかなと思います。
スキャモン曲線
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/y-kondou/page_1.htm

そう考えると子供達も時間がありません。
このあいだ浜松の高校の校長先生にお会いしたときに別に運動の話をしたわけではないですが、やはり小学校4年生までに身に付けたものが大事だとおっしゃっていました。

そう考えるといい高校や大学に入れることを目標にしている方が多いですが、実際は10歳までくらいが大事だと思います。
その後のは結果という言い方も出来ると思います。

でもそれ以降もムダと言うこともないと思います。
もう少しで指導ははじめてまる10年になります。
サークルでまる3年、GYMでもうすぐ7年。

これだけ教えてきて最近は「人を作りたい」と思うようになりました。

長くなったので続きはまた書きます。

2007年11月24日

岡田武史監督の講演会の感想

浜松市商工会議所で行われた元サッカー日本代表監督 岡田武史監督の講演会に出席してきました。

「リーダーシップと人材育成」と題して行われました。

第一声は理念が一番大切でそれを何のために行っていくかという目的が必要だということでした。

そして選手を育てるというよりも「選手を育てる邪魔をしない」「本人に気づかせてあげる」ということでした。

岡田監督の哲学性というか、知性、人間力の高さに驚かされました。

私達は武道、格闘技という道を選んで一つの山を登っています。

道はそれぞれで「宗教」 「仕事」 「勉強」といろいろあります。

でも頂は一つです。

皆それぞれの道を選んでその頂きに向かって登っています。

だからいたずらに「道」を説いてはいけないし「闘う」事にこだわらなければいけません。

闘わないで「道」を説くなら最初から 宗教にいけばいいと思います。

よく礼儀が身に付くから武道をさせるという人がいますが、礼儀を身に付けるのは家庭や地域でしかできません。
道や厳しさなら、実社会や仕事の方が道や厳しさがあります。

だからいたずらに「道」を説くのではなく「術」にこだわらなければならないし、実際に「闘う」ことにこだわらなければいけません。

そうでないのなら違う道から登るべきです。

実際に行動に起こさず、闘わず、投資をしないで  リターンを得るのは不可能です。

ローリスクハイリターンという言葉がありますが、そんなものは存在しないと思います。

リスクとリターンの伸びしろは同じです。

仕事も先に投資をしてその後にリターンを得る。

これしか仕事の仕方はありません。

だから闘わなければ何も得られません。

宗教でいうところの「悟り」これは私達の世界では「平常心」  「無念無想」と呼ぶと私は信じています。

でもそれは戦い続けて「術」という技術にこだわり続けた先にあると私は信じています。


岡田監督のお話を聞いて道は違えども「サッカーという道」を追求して私よりも遙か先にいる人が、いることを今日感じました。

もっと精進を積んでいろんな事に早く気が付きたいです。

2007年11月12日

理念

物事を押し進めていく上で一番重要なものは「理念」です。
常にこれに向かい、理念とそれていないかを確認するのが大切だと思います。

オリンピックの金メダリストは、統計をとっていくと、はじめた子供のときから金メダルをとろうと思っていたそうです。

だんだんとそう思うわけではありません。
これも一つの理念です。

練習を見ていても思います。
何に向かって練習しているのか?
どの先生でも「練習に勝ち負けはない」と言います。
これってどういう意味なんでしょうか?

練習はあくまでも練習だし、一つの技を身に付けるためにやっているものであって目の前の人に負けないためにやっているものではありません。
よく練習に勝ち負けを持ち込む人がいますが、それは違います。

それはただ反応するだけの人生です。

私も木口道場にいるときにただ反応するだけの練習をしていたら朝日さんに
「おまえバカを通り越してなんにも考えてないだろう」
といわれました。

確かに反応するだけの人生は、バカを簡単に通り越しています。
ただ目の前の人に負けない、ただ目の前の人がやってくることに対して反応するだけの練習には、理念も目標もありません。

これは日常生活にもいえて、お金がないから仕事をしよう。
コンビニに行くとタウンワークがあるからそれをもらって、探して、時給800円。
場所は近いな。
よしこれにしよう。
行ってみて。
いやになったらやめて。
またお金がない。

これは反応するだけの人生です。バカを簡単に通り越しています。
理念も目標もありません。

どこにも間違いなくたどり着けません。

わくわくどきどきするようなこと、これだけを選んでも長く持たないしたどり着けません。

私もGYMをはじめて4年位したときにぽかーんと穴の空いたような気持ちになったときがありました。

楽しいだけじゃ何年も持たないし、どこにもたどり着けないと思います。

私はGYMの代表でありながら本当のことを言うと「趣味」というものに対してあまり肯定的ではありません。

息抜きは必要だと思いますが「趣味」は老人のものだと思っています。

「趣味」はいくらやっても趣味でしょう。

毎日、新聞を見ていると思いますが、これからの10年は社会全体が大変革を起こします。

そんなときにこそ「理念」や「目標」が必要だと思います。

息ばっかりぬいていてもしょうがないです。

それなのでGYMに通って私から習っている以上、うちに通ってくれている方だけでもそういったメンタリテイーを身に付けていってほしいと思います。

何でそう思うかというと、K.O.SHOOTO GYMに通ってくれて私に関わった方皆に成功してほしいと思うからです。

きれい事じゃなく本当にそう思います。

順番として私の周りの人が成功しない限り私も成功出来ないからです。

人類の歴史始まって以来常に成功する人とそうじゃない人、勝つ人と負ける人、金持ちとそうじゃないひとがいます。

そうでなかったときは一瞬としてないはずです。

その差は何かというとやはり「理念」をもてるかどうかだと思います。

GYMに通うのも武道としてとらえ、実生活に生かしていかなければ意味がないと思います。

 
長くなったのでこの辺で一度終わります。

2007年10月19日

昇級

格闘技でも会社でもスポーツ全般にもいえますが、昇級というのがあります。

柔術で言えば帯が上がるとか、会社では上のポストに就くとか、ボクシングなら世界戦に挑戦するとか、プロ野球のエースになるとかいろいろあります。

スポーツに限って言うとルールの中に昇級の条件としてどこにも「人格」のことは書かれていません。

昇級するのに面接とか無いです。

しかも強さと人格は残念ながら全く関係がありません。

以前ニュースでこんなのがありました。

ある外食産業のチエーン店でそこの店長が閉店間際に来た女性のお客さんに乱暴を働いたそうです。

だれも他に人がいないことにつけ込んでシャッターを閉めて、犯行に及んだそうです。

よくよく聞いていくとその店長は入社して1月半しか経っていなかったそうです。

会社が、一月半でもその人がマニュアルに従って売り上げを維持していくだけの能力があると判断したのだと思います。

会社も遊びでやっているわけではないし、投資したら投資した分だけ元を取りたいというのが人情ですから、そういった能力だけとれば間違いではないのかもしれません。

でもあまりにも育つまでの期間が短すぎます。

これはこういった会社だけの問題ではなく世の中全体、そしてスポーツ全般にもいえると思います。

重ね重ね言いますがどのスポーツのどのルールを見ても上に上がるのに「人格」のことは書いてありません。

だからこそ対策として「簡単に上には上げない」ということが重要だと思います。

勝ち上がりさえすれば何であろうと世界戦にも挑戦出来ます。ルールにも違反していません。でも本当にそれでいいのかよく考えた方がいいと思います。

柔術もその帯で優勝しさえすれば上の帯にあがれます。ルールにも違反していません。でも本当にそれでいいのかよく考えた方がいいと思います。

修斗も登録しさえすれば誰でも出場出来ます。そして勝ち上がっていけば誰でも世界チャンピオンになれます。ルールにも違反していません。でも本当にそれでいいのかよく考えた方がいいと思います。

別に誰かのことを批判しているわけではありません。

GYMにも貼ってありますが、修斗には理念があります。私は理念があり理念に元付いて行われている修斗が好きです。


「打て」という“打”ではなく、
「投げろ」という“投”ではなく、
「極めろ」という“極”ではない。
また単に打・投・極を総合的に
闘えばいいというものでもない。
自然の流れにのった技術がとぎれなく連係し、
なめらかに回転することが修斗の姿である。
そして闘いを修めていく修斗の思想が、
競技者を人格的に正しく導く。
それこそが修斗の理念である。
礼に始まり、礼に終わる。
礼の姿勢こそ修斗の基本姿勢であり、
自然に礼を発せられることが、
修斗体得への第一歩である。

ここに書いてある理念は、修斗だけのことではなくだいだい物事全般にいえることだと思います。

でも言うは易し、行うは難し。

だから大事なことは「簡単に上に上げない」と言うことだと思います。

先日の柔術の大会で成績を残した磯部師範と渡辺さんが青帯になりました。

磯部師範は少し長過ぎかもしれませんがGYM創設から今まで時間をかけてやっと青帯になりました。

渡辺さんも一度退会しまた戻ってきて休んでいる間も入れると5年?くらいかかっているかもしれません。

昇級おめでとうございます。

2007年09月07日

子曰く

「聖人は和して同せず、

小人は同して和せず」

孔子の言葉です。

(人格の高い人は和を大事にするけど仲良しごっこはしない、そうでもない人はそういうことがわからなくて仲良しクラブはするけどそこには、なんと目標も徳も共通意識もない)と孔子先生がいいました。

今年になってからGYMを基本から見つめ直そうと思ってやっています。

GYMも6年半ほどやってきましたが、元々好きで始めたモノですがやってきて自分自身が何か面白くないなと感じることがありました。

何でだろうと考えたときに自分が思っていたモノとは違う方向にGYMが行っていたからだと気が付きました。

Hpには「格闘技を楽しもう」「誰でも出来るし、全ての人のよりどころになりたい」と書いてあり今でもそう思っていますが、それが悪い方にいきKO道場じゃなくて、KOスポーツジムになってきていました。

うまくいえませんが以前は、例えば練習の途中参加も帰宅も自由、私語も自由と書いていますがそれを悪い意味でまに受ける人がいました。スポーツジムのエアロビのクラスでも始まって10分経ったら入室出来ないし、途中で帰る人も見たことがありません。

「和」というものは大切だと思います。

聖徳太子が作った17条の憲法?にもたしか?第1条に「和をもって尊しとなす」とあります。

「和」とは会ったらおしゃべりしたり一緒に遊びに行ったりする友達を作ることとは違うと思います。

私はGYMでは指導しなるべくコミニュケーションをとるようにしていますが、逆にGYMの外では極力とらないようにしています。

選手には外でのみに行ったりしなくていいから、友達にならなくていいから仲間になりなさいと言っています。

GYMの立石さんがこの間うれしいことを言ってくれました。
立石さんは高校生の息子さんとK.O.SHOOTO GYMに通ってくれています。
「息子は中学の時は部活で圏の上位まで行くチームにいたけど、高校になったら仲良しクラブで疎外感を感じたけど、GYMは皆が目標に向かっていく気持ちを持ってやっているからいい」と言ってくれました。
そういう風にみてもらえていたことがうれしかったです。

切磋琢磨という言葉がありますが、磨きあうという意味の言葉ですが石一つだけじゃ磨きあえません。

別に全員にプロになれと言っているわけではないし、それぞれが自分の全力を出せればそれでいいと思っています。

KOコラムの最初の頃に「うちのGYMに入ってくる多くの人は格闘技に興味のない人です」と書きましたが、確かにそのときはそうだったかもしれませんが、今はすごくいい仲間で出来ていると思います。

この間雑誌を読んでいたらある有名な選手がGYMを開いたけど入会を断っているとありました。
何となく入ったりした人がいると雰囲気が壊れるからとありました。

私も人の子なので進学のことを考えると、いい学校って何だろうと考えます。
それって入学の段階で「変な人を入れない」ということじゃないかなと思います。
会社でも全く仕事に興味が無くて楽して早く帰ろうとしている人がいますが、そんな人が一人いるだけで周りの環境がおかしくなっていきます。
「入れない」というと言い過ぎかもしれませんが、周りの人がその人をよくして、それでもダメならその人は自分からいなくなると思います。
学校でも夏休みには誰かいなくなっていました。

今年から人知れず改革していき、いい感じになってきました。
そのおかげで自分が少し幸せになれました。

でもやはり気になるのは「和して同せず」という部分です。
私が所属していた「木口道場」はプロしかいない少ない人数で練習していたけど、とんでもなく強い選手が次々出てくる異常な道場でしたが、仲間意識はすごく強かったと思います。
今はみんなバラバラだけど仲間です。
練習しているし来る時間や帰る時間も違うので、ほとんど会話することもありませんがお互い練習し、試合も必ず行きセコンドにもつきました。

GYMをはじめてから試合にセコンドで行きますが、ほとんど私と試合に出る人という構成のような気がします。
自分が出なければ試合には行かない。
他の仲間の試合があろうがなかろうが、練習も来たいときだけ来て自分の練習だけして帰る。

自分が何を目標としてやっているか考えたときに、チャンピオンを出したいのか?五味みたいな選手が出せればそれが最高に幸せなのか?考えたときに、誰かに勝つとか一番になるとかを目指しても何か喜べないなと思いました。

強いって何だろう?と思います。

自分さえよければそれでいいそんな人がチャンピオンになっても全然喜べません。

競技で強いということと人格は全く関係ありません。
人格がめちゃくちゃでも、成功している人はたくさんいます。
教えるということは全く逆です。
人格です。強さは10番目くらいです。

スター選手がいきなり指導者になったら習う人は大変です。
その選手が指導者になるまでスター選手になったのと同じだけ時間がかかります。
その間ずっと選手は我慢しなければいけないということですか?

どの先生もいうありきたりのことですが、自分が目標としたり幸せだなと感じるのは「人間を育てる」ということだと最近思います。
ここまでマイナスのことも書きましたがそれも全部自分が教育してこなかった責任です。

選手を教育していき、その選手がその課程の中で出来なかったことが出来るようになったり、試合に出て勝ったり悔しい思いをしたり、ひょっとしたら一番になれたり、そういう感動を共有出来たら幸せかなと思います。

もう一度書きますが
子曰く「聖人は和して同せず、小人は同して和せず」
そんな人を格闘技を通して育てていければ自分が一番最初に幸せになれるかなと最近思います。

2007年07月27日

ニート

最近ニートというのが流行っているそうです。
それって何だろうと考えました。
あきらめてるってことじゃないかなと思います。

62歳の方が今まで50Kgを越えたことがなかったのに最近体重が3キロ増えたからまだそんなあきらめる年じゃないから減らしたいといっていました。
最近は甘えを容認するような世の中になっていると思います。

あきらめてる人は私から言わせれば乞食と同じです。
(言い過ぎかも)
乞食とホームレスは違います。
ホームレスは事情によりたまたま定住する家のない人のことです。
ニートは家のある乞食みたいなものです。
(これも言い過ぎかもしれません)でも、うまいことをいったなと思いました。

みんな強くなりたいとか、成功したいとか、勉強ができるようになりたいとか、やせたいとか色々言いますが、そうじゃない人が多いです。

それって何でだろうと考えたときに、結局それが自分の望んだ姿だからだと思います。

弱かったり、ダメだったり、バカだったり、太っていたりそれが自分の望んだ姿です。

強くなりたければ、やせたければ何でもするでしょう。
結局それよりもクーラーのきいたところでアイス食べてまーいいか、といったところでしょう。

スローライフだとか自分らしさだとかそんなくだらないことを言う人が多いですが、もっと一生懸命働いてから言えよと言いたくなります。
私に言わせればそんなのは、乞食か死人の考え方です。

要は「あきらめないでくれ」と言いたいです。

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