パンクラスとは?

現代のMMAは、1993年11月にコロラド州デンバーのマクニコルズ・アリーナで開催されたUFC1から始まったと思い込んでいる人が多いようだ。実はその数カ月前、日本の東京NKホールでは、破天荒なプロレスラーたちがプロレスの原点に立ち返り、初のミックスドファイトが行なわれていたのだ。

船木誠勝と鈴木みのるは、伝統あるプロレス界に大きな可能性を持っていた。船木はアントニオ猪木の後継者として、また鈴木はアマチュアの血統として、日本プロレス界で大きな可能性を持っていた。しかし、藤原喜明やカール・ゴッチの弟子たちは、ロード・ウォリアーズのようなアメリカの巨大ステロイド・マシンに媚びを売るようなことは考えていない。彼らはプロレスをもっとシンプルな時代、試合が本物で、ショーマンシップが実際の競技の文脈の中にあった時代に戻したかったのだ。

船木(ガツン)

Andrew Quentin, CC BY-SA 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0, via Wikimedia Commons

このアイデアは、必ずしも新しいものではなかった。猪木は1970年代、本物と称する試合でさまざまな格闘家と格闘していた。1980年代には、UWFとその子孫が “シュートスタイル “プロレスを世に送り出し、本物の技と本物のホールドを使った、実際の戦いに匹敵するほどリアルな決められた試合が行われた。

船木と鈴木は、それをさらに一歩推し進めようとした。彼らは、プロレスのルール(ロープに入ったらブレイク、顔面へのパンチは禁止)を修正した上で行われる、正当なシュートマッチを望んだのである。前代未聞のコンセプトであり、予想外の結果であった。第1回大会は、6試合で13分5秒という短い時間であったが、このようなストレートマッチのカードが組まれた。何かを変えなければならない。

日本人のファイターとアメリカのケン・シャムロックの技術は、試合はできても訓練されていない相手よりはるかに上だった。この時、彼らは重要なことを学んだ。それ以来、不運な敵を倒す前に、観客にショーを見せることを決めたのだ。

やがて、新世代のファイターたちが、元祖トリオの名選手たちに追いついてきた。バス・ルッテンは、オランダ人のキックボクサーで、シャムロックに初期に2試合負けたが、マットゲームをマスターし、パンクラス史上前代未聞の19連勝を達成して、プロモーションで最高のファイターとなることができた。

パンクラス初期のルッテン

1996年9月の船木との試合は、パンクラスの最高潮であり、急速に変化するファイトゲームの中で、最後の生き残りをかけた試合であった。ルッテンは、レジェンドを解体し、時間をかけてサブミッションゲームを教えた男を血まみれにし、他の方法では手に入れられなかった対戦相手を自ら作り出したのである。

パンクラスの試合は、洗練されすぎていて、UFCや日本に誕生したばかりのPRIDEのような暴力性がない。船木は、1998年に頭部へのパンチを合法化するなど、より伝統的なバーリトゥード・ルールに移行し、軌道修正を図ろうとした。しかし、それは遅すぎた。外国人選手の多くは、UFCやPRIDEに移籍してしまったのだ。さらに悪いことに、日本のトップ選手たちは疲弊していた。過酷なトレーニング、毎月のように行われる試合は、パンクラス創設者たちに大きなダメージを与えた。